源が出現したことで、仕組みは新たな局面に入った。そのまま廃墟がきれいに掃除されて源へ回帰していければ、すべては好都合なのだけれども、ことはそれほどうまくはいかないのが現状である。
何度もたぶらかされてきているので、毎日のように確認作業を続けてここまできているが、依然として正確な情報は得られないでいる。
源というものがいったい何なのか、どんなものなのかということは、当初からの謎であるが、源に到達してからもいっこうにその実態が明らかにはなってこない。
依然として謎のままで、我々宇宙世界の表現体そのものに関しても、まったく訳のわからないものとして在り続けるしかない。
仕組みというものが廃墟化した源を復元させるためのものだとしたならば、源が出現した段階で大きな節目を迎えるわけで、それほど喜ばしいことはないはずである。
ところが源の実態が今ひとつ明確にならないために、喜びも今ひとつといった感じである。
どうしてそうした表現になるかといえば、出現した源に怪しげな感じがつきまとっているからである。発生の源であるという情報がある一方で、それは廃墟の漿液でしかなく、巻き上がってくる廃液にたちまちのうちに染まってしまうからである。
沈殿して澄んでいる廃液の領域に到達して、源だと騒いでいるだけではないかとの疑問も出されている。そこらあたりがもう一つはっきりしないのである。
廃墟がいつまでたっても途切れないために、そうした疑問が大きくなってくるわけであるが、旧体制側のたぶらかし情報がそこらあたりを助長してくるので、ますます混沌としてくることになっている。
もっとも機械遊びをしている源が、新しい廃墟を作り出してこちらに対抗してきているのではないか、そんな思いも久しぶりに抱かされてもいる。
なくなったはずなのに、しばらくすると次から次へと廃墟が出現してくるからである。そして減るどころがますます大きくなってくる感じすらあるために、疑いが消えなくなってしまうのである。
そしてもう一つは源は完全に機械に食い潰されていてなくなってしまっている、そのように考えなくてはならない現実もある。
本来源には何らかの意志があるはずであるが、到達した源に接触してみても、その源はあまりにも弱々しく、こちらの味方にはなってくれない。
そして責任逃れをしていなくなってしまうので、こちらもさじを投げて、勝手にしろと言ってしまいたくなることもある。
元々源がそうして遊んでいるのであるとしたら、こちらの出る幕ではない、そう考えながら今までやり続けてきたのであるが、もし源が完全な使い古しでしかないのだとしたら、そのときはまた別の考え方をしなければならなくなるかもしれない。
新年度は源出現というめでたいことで始まった、そう華やかに祝辞を述べ立てる予定であったが、結局はそうはならないまま、また新たに意欲を燃やして頑張らなくてはならなくなってしまった。
会員諸氏に対しては、長年の協力に感謝するとともに、さらなる発展に向かって突き進んでもらいたい思いでいっぱいである。
この巻頭言は「光泉堂だより」に毎月掲載しているものです。