仕組みの会の新企画「富士山の集い」第一回目は大成功の形で終了した。
事の始まりはそれまでの富士山の浄化の大祭、あるいは仕組みの会の解散、伏魔殿側によるその指示に対する反発、そこからの手探りであった。
その指示は仕組みを先取りした潰しであることが判明してからは、外されていた富士山の大祭を先導役の佐田が取り戻し、そこからの再出発となっていったわけである。
そしてそこに富士山のオオクニヌシ大神からの年頭のお言葉が出され、富士山にはってでも上るような思いで残りの人生を生き抜け、そう言われたところから始められたのであった。
余生を大禍なく過ごそうと考えていた者にとっては驚天動地の指示であった。
仕組みから逃げるのではなく、前向きに取り組めと言われたわけで、しかも老人が富士山にはって上るイメージでの取り組みが必要だと言われては、考え直さざるをえなくなってしまったのだった。
そして向きを変えることになっていったわけであるが、それは思った以上に大変な作業となっていった。
ただ富士山に登るのではなく、残りの人生を富士山にはってでも登るように生きろと言われているわけで、それがまともな人生であるわけがない。
難行苦行の余生ということにならざるをえないわけで、予定が完全に狂ってしまったのであった。
苦しいだけの人生、九十才までの仕組みの課題、晩年は少しだけだが良くなるとの運勢をあてにして、八十才以降の余生をのんびり生きようしていた計画は無残にも崩れ去ってしまったのであった。
それなら奪い取られてしまった仕組みの会の富士山の浄化行を、人生道、生命道にからめての富士山の集いに切り替えてしまえば、それで仕組みの会も立ち行くのではないか、そう考え直して取り組んだのが今回の「富士山の集い」であった。
登るもよし、遊ぶもよし、各自残りの人生、未来の生命を絡めて自由に取り組む形にして。なにせ仕組みの会は敬老会でしかないのだから。
参加した会員はこちらの意向を受けて、各自バラバラ、独自色の強い自由なものとなっていった。
そしてその結果は富士山の主オオクニヌシ大神からの次のお言葉に反映されたのであった。
かけまくも、
紆余曲折の調整を致しまして、
富士山に集いました仕組みの会の皆様に、
謹みましてご挨拶申し上げます。
オオクニヌシ大神でございます。
この態勢整えられまして共に致しましたお喜び申し上げます。
さらなりまするお喜びは、
お一人お一人自力の確認致しまして、
目指します位置定めし事でございます。
この大事、
大きな学びと致しましてこの先々の力となりまするを祈念致しまして、
何と多くの神々集結致しました中にて過ごされました、
富士山の集い第一回目に満点の御点を仕組みの会の皆様に捧げまして、
ご挨拶と致します。
オオクニヌシ大神
仕組みの会御
令和四年七月二十五日
この巻頭言は「光泉堂だより」に毎月掲載しているものです。