21.建礼門院の実態

建礼門院の実態 23

安徳さんが富士山の佐田の拠点に来た時、建礼門院と高倉天皇が処刑されたのであるが、それを見たがって女安徳さん、しきりに処刑場へ行こうとしていた。

皆にとめられて親の処刑に立ち会うことはできず、藤原族の処刑を見物していただけのようだった。

そのあとのことであるが、頼みの綱であった我が子安徳がいなくなってしまった建礼門院、処刑後の調整を終えて赤間神宮に戻ってはみたものの、皮の男の子ではどうにもならず、困り果てることになっていったのだった。

セット夫の高倉天皇も付きっ切りで調整しようとしても、高倉天皇そのものが変貌し始めていて、何かが違うことになっているようだった。

高倉天皇はとりあえずは正統派ではあるので、自分が三派抱き合わせにされてることの理解があったため、その調整をされているようであった。

ところがそれをセットでやろうとすると、建礼門院側の藤原族が激しく妨害するので、たまらず御所へと引き上げて、そちらで調整することになっていった。

ところが変貌し始めた高倉天皇を御所は受け入れないのだった。

そのため高倉天皇は伊勢の外宮へ行くこととなり、そちらでの調整がなされることになっていったのだった。

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